2016

毎日ごきげんに暮らしたい

生きていると切ない記憶ばかり増えていく

記憶は切ないものだと思う。

幸福な思い出や、辛かった思い出も、いまでこそ蒸し返して思い出すようなことはしなくなったけど、やはり思い出すときはいつも切ないものだ。

逆説的に、感傷的になったときに思い出されるのが思い出なのかもしれない。

 

今日は会社帰りにいきなり、小学校時代の友人たちの飲み会に誘われた。

その中に私の大好きだった人もいた。8年間好きだった人。

思春期の8年間は大きい。心や身体の距離が一番近かったのは、大学生の時の恋人たちだけど、依存や執着という言葉さえも知らないで、ただただ好きだった人だった。

 

誘われて、会う前は「もう今日死んでもいい神様ありがとう」と思ってたけど

会ってみたらそうでもなかった。そうでもなかった、というのはいい意味でも、悪い意味でも。やっぱり昔の話だとしても告白した手前多少気まずかったのかもしれない。

けど、みんなで一緒に遊んですごく楽しかった。小学生の時みたいに。

ただ、私の”好きだった人、は相変わらず”好きだった人”だった。

 

一緒に遊んで、あの頃のあだ名で呼ばれて少しだけ嬉しくて、

シーソーに乗って、近い距離は”まじか”とは思ったけどドキドキとかはなくて、

また会えて良かったなあと素直に思った。

空のコップに水を注いであげていて、相変わらずよく気がつく。

こういうところが好きだったんだよな、と思い出す。

今のその人の性格も何も知らない。もう知ってることのほうがずっと少ないのだろう。

けどきっと今話しても、恋愛感情抜きで、ああこの人好きだな、と思うんだろうな。

 

好きだった人、はもう4年かそこら付き合ってる彼女の車で帰って行った。

SNSで顔は知ってたけど、予想通りの感じの女の子だった。

幸せになるんだろうな、この二人、となんとなく感じた。

幸せになってほしい、なんてことはおこがましくてとても言えない。

今日の自分の気持ちとして、相手に何も求めることはなく、ただただ、相手が自分にとって元気をもらえる存在であること、を嬉しく思った。何にも求めなくて、ただその人がその人らしく暖かく生きていること、元気でいること、それで私は嬉しい、私の生きる糧となる。

それが一番フラットな好きの気持ちなんだろうな。

そういう人とわたしも幸せになりたいな、と思えました。

 

子供抱っこしてまたみんなで会いたいな。叶いますように。